いいか? 悪いか?
ということかね?

いっさい判断はしない。

この出来事から何を感じ、どう考えるかは、
そちらが決めることじゃ。

亡くなられた女性は、とっさのことで、
思わず体が動いたのだろうと思います。
頭で考える前に、体(魂)が反応したのだろうと…。
今回のことは、「自己犠牲の愛」ではないのでしょうか?

それを超えた愛だね。

考えてないからね。瞬間だから。

電車事故での救出は、時々ニュースになります。
ときには、感動も呼びます。
二人とも助かれば感動ですが、今回のように助けに行かれた方が亡くなられてしまうと、なんともいえない無念さや残念 さが残ります。

この者(亡くなった女性の方)は、無念にも残念にも思ってないよ。

「やるべきことをやった」
「まっとうした」

という満足感で、魂の故郷に戻ってきている。

みなが苦しいのは、

「こんなこと、自分はとても無理」
「残った家族のことを考えると、やりきれない」

と感じるから。

しかし、人にはそれぞれ器があってね。
誰もがこの行動をとる必要もなく、
それが素晴らしいと感じるかどうかも、人によって違うんじゃよ。

この行動が誰にとっても素晴らしいと言っているのではないよ。

ただ、人は今の(自分の)器の中で、愛を出し切って生きた時、幸せなんじゃよ。
魂は満足するのじゃよ。

『自己犠牲の愛』とはどう違うのですか。

『自己犠牲の愛』とは、自分が苦しくなっているのに、
自分を置いといて、人を助けにいくことだね。

つまり、自分の器を超えて愛を放とうとすると、
無理があり、そこにひずみができる。

『苦しいと感じているかどうか?』

これが見極めるポイントだね。

「なるほど。今回のニュースで亡くなられた女性の方のご家族や、命を救われた方にも、学びがあるのですね?」

そうだね。
両親は冷静に受け止めていたね。

あの状況の中、客観的な視点で見ることができる。
これはなかなかできることではないね。

ご両親もまた、魂年齢が高い方々なのでしょうか?

そうだね。
『ありのままを受けとめる』という領域の、近くにいる人たちだね。

救われた方については?

命とは何か?
に向き合うことになるだろう。

残された人生の中で、その問いと向き合う。

苦しいだろうね。
助けられた意味を模索する旅は…。

自分なんか死ねばよかったのに…って、
やり場のない葛藤が押し寄せてくるだろう…。

生きていくことの方が、苦しいかもしれぬな。
この者にとっては…。

しかし、これだけは伝えよう。

あなたは助け出される価値ある人間なのじゃよ。

人生を嘆き、どんなに自分を嫌い、否定し、
自分なんて…と思ったとしても、

あなたは助け出される価値ある人間なのじゃよ。

『世界中に味方なんて一人もいない』

と思っていたかもしれない。

だけど、一人の女性が、「助けたい」と思い、
行動に移した。

彼女は観音の化身だね。

あなたは助け出される価値ある人間なのじゃよ。

何度でも言おう。

あなたは助け出される価値ある人間なのだと。